ココロのメッセージ

株式会社イイリイのビジネス面の目標とは旧浦和市(現さいたま市の一部)を中心に、埼玉県内だけで成立させるビジネスを可能にする事が主要テーマです。

よく「埼玉都民」など言われますが、ネット・ITの発展によりローカルビジネスが可能になるんじゃないか?というアイディアををゆっくり(3-5年後を目標に)実現したいと考えています。

埼玉オリジナルの文化、つまりネットを使って東京に出なくても、通勤しなくても暮らせる文化が、浦和を中心にした埼玉文化圏には可能なはずだ、という事です。

 

一旦その考えを持って日本経済新聞、主要新聞の埼玉面、テレ玉(旧テレビ埼玉)の番組「埼玉ビジネスウオッチ」などを見ていると、別の一面が見えはじめて来ます。

埼玉の企業は何だかんだ言ってメーカーが多い。そしてそこには世界レベルの独自技術が多い。

 

とはいえ9割以上が中小企業なのが埼玉の経済。実際にIT革命による価値創出の効果が出てくるにはもう少しかかるのではないか?という時間の制約があります。

 

しかし埼玉は、文化面・思想面では非常に高いレベルを常に維持してきたエリアです。そこには時間の制約はありません。

今回の地震に関しても素晴らしいメッセージを立教新座高校(俺達世代にとっては立教高校ですね)の校長が出しています。

このメッセージは「地震に際してのメッセージ」ですが、全世代のお守りになるんではないでしょうか?

 

我が家は、僕の祖父が神主でその長男である僕の父が無宗教という屈折があった為、信仰的には何もありません。

しかし結婚式を上智大学でやったという事もあり、ザビエル来日以来数百年かけてミッションを続ける、歴史的な物差しで人間を捉えるキリスト教的価値観の素晴らしさも理解しています。

といいつつ旧盆には墓参りをする典型的な日本人なんですが・・・。

 

以下リンクを貼りますが、消えるかも知れませんので勝手にコピペもします。怒られたら消しますが素晴らしいメッセージだと思います。是非我が子が高校を卒業する10年後に伝えたいメッセージです。

 

リンク 立教新座高校

http://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/

 

---以下勝手にコピペ。埼玉発の素晴らしいメッセージです。我が子の高校卒業時に伝えたい。---

2011.03.16

  • 学校からのお知らせ
卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。

諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、本校教職員を代表して心より祝意を述べる。 また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。
とりわけ、強く、大きく、本校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。
未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。

このメッセージに、2週間前、「時に海を見よ」題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しか し、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これから述べることは、 あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうしても以下のこと を述べておきたいと思う。私はこのささやかなメッセージを続けることにした。

諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。

大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。

大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはま だ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。

多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろ うとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。

楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。
君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。

学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学に行くのか。

誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。

大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。

言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためでなないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。

中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。

大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自 分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。

大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。

池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。

「今日ひとりで海を見てきたよ。」

そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。

悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。

時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなの だ。

大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを 抜かすな。

いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。

いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。

海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。

真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。

鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。

教職員一同とともに、諸君等のために真理への船出に高らかに銅鑼を鳴らそう。

「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)・ヨハネによる福音書8:32

一言付言する。

歴史上かってない惨状が今も日本列島の多くの地域に存在する。あまりに痛ましい状況である。祝意を避けるべきではないかという意見もあろう。だが私は、 今この時だからこそ、諸君を未来に送り出したいとも思う。惨状を目の当たりにして、私は思う。自然とは何か。自然との共存とは何か。文明の進歩とは何か。 原子力発電所の事故には、科学の進歩とは、何かを痛烈に思う。原子力発電所の危険が叫ばれたとき、私がいかなる行動をしたか、悔恨の思いも浮かぶ。救援隊 も続々被災地に行っている。いち早く、中国・韓国の隣人がやってきた。アメリカ軍は三陸沖に空母を派遣し、ヘリポートの基地を提供し、ロシアは天然ガスの 供給を提示した。窮状を抱えたニュージーランドからも支援が来た。世界の各国から多くの救援が来ている。地球人とはなにか。地球上に共に生きるということ は何か。そのことを考える。

泥の海から、救い出された赤子を抱き、立ち尽くす母の姿があった。行方不明の母を呼び、泣き叫ぶ少女の姿がテレビに映る。家族のために生きようとしたと語る父の姿もテレビにあった。今この時こそ親子の絆とは何か。命とは何かを直視して問うべきなのだ。

今ここで高校を卒業できることの重みを深く共に考えよう。そして、被災地にあって、命そのものに対峙して、生きることに懸命の力を振り絞る友人たちのために、声を上げよう。共に共にいまここに私たちがいることを。

被災された多くの方々に心からの哀悼の意を表するととともに、この悲しみを胸に我々は新たなる旅立ちを誓っていきたい。

巣立ちゆく立教の若き健児よ。日本復興の先兵となれ。

本校校舎玄関前に、震災にあった人々へのための義捐金の箱を設けた。(3月31日10時からに予定されているチャペルでの卒業礼拝でも献金をお願いする)

被災者の人々への援助をお願いしたい。もとより、ささやかな一助足らんとするものであるが、悲しみを希望に変える今日という日を忘れぬためである。卒業生一同として、被災地に送らせていただきたい。

梅花春雨に涙す2011年弥生15日。

立教新座中学・高等学校
校長 渡辺憲司

 

 

---以上勝手にコピペ。素晴らしいメッセージです。---

 

実は昨年、従姉が亡くなりました。享年43歳(だったかな?)。彼女が晩年(といっても30代~40代前半にかけて)信頼を寄せていたのが西武多摩湖線沿線のなんとか長老会(すみません失念)の神父。一度お話を伺いましたが素晴らしい方でした。

 

我が家はそもそも神道の家系ですが、従姉はそんな中ミッションスクールに入った高校の時に受洗(キリスト教徒に洗礼)、伯父も従姉の影響でその後受洗した、人です。

 

慰霊の席でそんな話を訊きながら僕は、キリスト教の本質的なメッセージはわからないなりにも、「全てを受け入れる」という懐の深い価値観のある事を神父から教わりました。

 

仏教的なアジアの文化の良さは「因果応報」。余談ですが「スパイダーマン」の監督サム・ライミもそこに理解を示し、日本文化に深く傾倒した、というのを以前自分がいた会社の先輩・藤澤さん(SCEのホラーゲームの映画化がハリウッドで進んでいた)から聞きました。「スパイダーマン」は「悪人に報いがもたらされる」というそれまでになかったハリウッド映画になり、イラク戦時のアメリカで流行りました。

 

しかし欧米を訪れてみるとわかるのは「因果応報」的なものはアジア独自の価値観。悪い事をした人に災厄が訪れる、と考えるのは世界的にみると普遍的な価値観ではないんです。

 

欧米の価値観は違ってもっと広かったり、逆に狭かったり、良くも悪くも価値観のスケール感が違います。

 

良いところは困った人達を「全て受け入れる」広さがあるところ。悪いところも個人的には強く感じたんですがこの場では書きません。身分や階層や民族・信仰による何かがあるように感じました。

 

自分の子供が間違った事をいう事があります。しかし「お前が間違っている」と一言で言うと子供には「排除される感覚」しか残りません。

 

大人でも同じ様に色々、社会に対して感じる事があります。僕はこういう業界で生きてきたのであんまりありませんが、社会に対する不信感・違和感を口にしたりするとそれまで優しかった人達が突然手の平を返したように「排除するような行動」をする事があるでしょう。日本文化は「排除する」感覚の多い文化です。それが文化の純化につながった良い面もあります。しかし一方で「排除される」人達がずっと存在しました。

 

しかしその時、「人と違う感覚」「他人と違う意見」「他人から嫌われるような見方」「他人と違うルックス」「他人と違う行動様式」つまり日本社会が「排除した」価値観を「その人特有の個性」と認め「全てをそのままに受け入れる」人達が存在していた、事を僕は昨年神父から教わり知ったんです。

 

僕は欲のままに生きているので、ハンガリー・ブダペストのマーチャーシュ教会に行った時も「割礼したい」などの冗談を口にしましたが、こういう存在があり、従姉が救われた事に、僕の頭では言葉にはできない「力」を感じています。

 

遠いアジアから中東を見ると僕達には理解できない宗教による紛争の悲しさがありますが、それを超えるメッセージがそこにはある事を「悩める日本人」に是非伝えたいとは思います。
今自分がいる価値観とは違う価値観があり、そこに救われた日本人も多いんです。

 

見ている世界が異なる人からの言葉を聴く事ができる。

 

この災難の中でネットのもたらした幸せに感謝します。

 

Author: Atsushi Nagashima

メディアコンテンツ制作を仕事にしています。 株式会社イイリイ 代表。

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